研究概要


多細胞生物では、たった一つの受精卵が分裂や分化を繰り返しながら細胞集団としての多様性を獲得し、複雑な個体を形成していきます。ダーウィンの進化論では、地球上の生物は様々な環境へ適応し、それによって多様性を持つように進化してきたとされています。細胞についても同様で、個々の細胞が細胞周囲の環境に合わせて変化し、多様性が形成されていくと予想されますが、この過程は十分に解明されていません。本研究領域では、多細胞生物において個々の細胞が周辺環境への適応と淘汰を繰り返しながら細胞集団としての多様性を形成していく過程を「適応多様性」と定義し、ゲノム生物工学、分子・細胞生物学、個体機能解析という「適応多様性」研究の基盤を構築するのに必要な多分野の研究者を結集して細胞多様性の成り立ちを俯瞰する研究を遂行します。これにより、現在の生命科学研究が抱える技術的な制約を突破し、学術体系を大きく変換させることを目指しています。

細胞多様性のイメージ図(マウス大腸)


研究の到達目標


近年のシングルセル解析技術の進展により、多細胞生物が想像以上に多種多様な細胞集団から構成されることが明らかになってきました(図A)。このような細胞の多様性は、体の成長や老化、そして病気の発症など、ライフサイクル全般で変遷していくことも示唆されてきており、今まさに細胞多様性の形成過程と意義についての深い理解が求められていると言えます。一方、現在汎用されているシングルセル解析は細胞や核の破壊的操作が必須であり、複数の異なるサンプルから得られた「スナップショット」の“偽”経時的な変遷から、多様性の形成過程を類推するにとどまっています(図B)。また、われわれが観察できる細胞形質をもとに「時間を遡って」その細胞の元の正体を突き止めることは出来ません。

そこで、本研究領域ではゲノム生物工学、分子・細胞生物学、個体機能解析という多分野の研究者を結集し、時間を遡った細胞系譜追跡やクローン単離、細胞間相互作用の記録などを可能にする技術基盤を開発することにより、ライフステージごとに個々の細胞が周辺環境への適応と淘汰を繰り返しながら細胞集団としての多様性を形成していく過程を調べます(図C)。この目的のため、以下の3つの研究項目に取り組みます。


❶ 多様性をもたらした細胞動態の記録

細胞の多様性が形成される仕組みを調べるためには、時間と共に変化していく細胞動態の把握が不可欠となります。[B01]谷内江班が編み出した、時間経過とともにゲノムDNAに情報を記録していく手法を利用してこの課題に取り組み、時間を遡って細胞系譜を記録するシステムを構築します。

 

❷ ライフステージごとの多様性の理解

上記の細胞動態計測技術を利用し、環境変化に応じた細胞系譜と多様性の変化を調べることにより、細胞が環境に適応し、多様性を形成する過程をマウスの様々なライフステージで調べます。[A01]諸石班は発生・成⻑過程における環境適応と多様性の形成を調べ、[A02]井上班は生体恒常性維持・老化過程における適応多様性の仕組みと意義について調べます。

 

❸「適応多様性」領域拡大への基盤開発

動的に変化する細胞動態を捉える研究手法を領域全体で確立し、領域内外の研究者と共有することで研究の普及と拡大を目指します。また、細胞の多様性をもたらす分子基盤を網羅的に抽出する研究手法を開発し、将来的な「適応多様性」研究基盤の構築をはかります。[B02]小嶋班が開発する細胞間相互作用を記録するシステムを用いて、多様性の変遷の中で特定の細胞が拡大または淘汰される仕組みを調べます。

研究の波及効果


本領域では、生命科学研究者と合成生物学者が相互補完的な立場で「適応多様性」 を理解するための研究基盤と基礎学理を共同で開発・構築することにより、これまでの多細胞を対象とした研究に新たな視点をもたらすことが期待されます。また、加齢や組織機能低下に伴う多様性の消失、および、前がん病変におけるクローン拡大など、細胞多様性の変容は生老病死のあらゆる場面で観察されます。そのため、本研究の成果によって得られる知見は、がんや加齢性疾患など様々な疾病に対する新たな予防・治療法開発への道筋を開拓する可能性を秘めています。個々の細胞が環境に適応しながら多様性を形成していく過程は、まさに多細胞生物の本質的な動作原理であり、その解明は様々な生命現象および病気の理解につながると考えています。